写真版・鉄紺ヒストリー |
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き せ き |
セピア色 |
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このコーナーは、箱根駅伝出場70回を超える東洋大学陸上競技部の歴史において、1933(昭和8)年の初出場から2009(平成21)年の初優勝までに幾多の鉄紺ランナーが箱根路に残した「輝跡(きせき)」を、セピア色の写真とともに振りかえります。 「鉄紺東洋」が常勝チームに進化しつつある今、これまでの歴史と伝統を、これからも紡いでいくために、伝え残していかなければならない「記憶」だと思います。 貴重な写真の数々は、当時のOBの皆さんから提供していただきました。 なお、当時のエピソードなどはあらためて聞き取り調査をして加筆したいと考えています。 |
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第4弾 1958(昭和33)年から1960(昭和35)の写真版・鉄紺ヒストリー |
第4弾は、鉄紺東洋の箱根駅伝20回目の出場となった1959(昭和34)年・第35回大会を写真でふりかえる鉄紺ヒストリーです。 昭和30年代初頭、現在の川越キャンパスが完成する前までは陸上競技部の合宿所は板橋区蓮根町にあり、練習場所も近所の高校のグランドや都内の路上を使用し、朝夕の食事は選手たちが交代で自炊していたそうです。 今の選手たちの環境からしたら、とてつもなく厳しい学生生活ではなかったかと想像されますが、それでも当時の選手たちは逞しく、前を向いて日々の練習に、そして学業に打ち込んでいたことでしょう。 こうした時代の鉄紺OBたちの努力の積み重ねと心意気の伝統があったからこそ、今の鉄紺東洋の隆盛があると思います。セピア色の写真に写る笑顔は、今の選手たちの笑顔にもつながっています。 |
旧白山キャンパス内でのひとコマ(昭和33(1958)年4月) |
現在の井上記念館(5号館)あたりにあった200mトラックにて 前列右から奥沢善二選手、小笠原聖士選手、 後列右から小泉選手、宮谷久仁男選手、薄田寿男選手、渡辺俊三選手、小池文司選手 |
関東インカレの入場行進でのひとコマ(昭和33(1958)年6月) |
当時のユニフォームは「T」一文字 旗手の村上皓一選手を先頭に、清水慎司選手、小笠原聖士選手、清水亘選手、齋藤一選手と続く この大会で東洋大学は初の2部優勝を果たし1部昇格を決めた |
練習でのひとコマ(昭和33(1958)年9月) |
合宿所近くにあった高校のグランドにて 前列右から小笠原聖士選手、奥沢善二選手、 後列右から吉田博選手、小池文司選手、村上皓一選手、中野照雄コーチ |
陸上競技部の旧合宿所前でのひとコマ(昭和33(1958)年10月) |
板橋区蓮根町にあった当時の合宿所前で近所の子供たちと 前列右から太田誠選手、村上皓一選手、小池文司選手、 後列右から小笠原聖士選手、清水亘選手、清水慎司選手 |
秋合宿でのひとコマ(昭和33(1958)年10月) |
神奈川県の平塚海岸にて 前列右から久松敏哉選手、清水亘選手、守田基男選手、新井勝夫選手、高田和男選手、 後列右から奥沢善二選手、宮谷久仁男選手、篠原幸男選手、石井稔選手 |
夏合宿でのひとコマ(昭和35(1960)年8月) |
長野県松本合宿にて 前列右から兼頼米太郎部長、中野照雄コーチ、内山末男さん、池中康雄さん、小池文司さん 後列は小笠原聖士さん |
(第4弾を終えて) 今回は、「東京タワー」が完成間近であった昭和33年から昭和35年までの鉄紺ヒストリーを紹介しました。 板橋区にあった当時の合宿所の写真、箱根駅伝初出場で1区を務めた兼頼米太郎さん(当時は陸上部の部長)と池中康雄さんが合宿の地を訪れたときの記念写真は、鉄紺東洋の歴史と伝統を感じさせるひとコマです。 これからも、貴重な写真とともに、セピア色に輝く鉄紺色のヒストリーを紐解いていきたいと思います。 2013.2.10 管理人記 |
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