ランナー列伝“鉄紺伝説”1 |
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〜“鉄紺東洋”の黎明期を支えた元マラソン世界最高記録保持者〜 |
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◎「第60回記念別府大分毎日マラソン大会によせて」に、鉄紺OB竹内達朗氏の特別寄稿「池中康雄先輩の記念碑に誓う」 を追加しました(2011.2.5)。 |
大分県公高教の機関紙(平成25年2月20日発行)に池中康雄さんが取り上げられました。 「大分偉人伝」第二回 池中康雄(大分県中津市出身) |
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はじめに ランナー列伝"鉄紺伝説"の第1回目は、箱根駅伝出場回数歴代5位を誇る東洋大学陸上競技部の黎明期に活躍され、昭和10(1935)年に当時のマラソン世界最高記録を樹立し、世界に羽ばたくランナーとして期待されていた池中康雄さんについて取り上げます。 参考となる資料が少なく復元しきれない部分が多々ありますが、年譜を整理するなど少しずつ加筆修正しながら充実させていきたいと考えています。
1 少年時代 池中さんは、大正3(1914)年3月25日、現在の大分県中津市で5人兄弟の長男として生まれました。子どもの頃から走ることが大好きで、旧制中津中学(現在の中津南高校)に入ってから本格的に陸上をはじめ、長距離の大会に出場するたびに活躍していたそうです。その中学時代には、自分の限界に挑戦するために、中津市郊外にある耶馬渓から久住山麓の「寒の地獄」までのおよそ70キロの道のりを走破したエピソードが残っています。 2 東洋大学に進学、箱根駅伝初出場を果たす 昭和7(1932)年、池中さんは東洋大学に進学しました。当時は箱根駅伝(大正9年の第1回大会は四大校駅伝競走といい、以後たびたび名称変更し現在に至る)が始まってまだ間もない頃でしたが、出場常連校ではない東洋大学を選んだの理由ははっきりしていません。そして、この池中さんの登場によって東洋大学は翌昭和8(1933)年の第14回大会に箱根駅伝初出場を果たし、"鉄紺東洋の歴史"が幕を開けるのです。 以後、池中さん自身は昭和18(1940)年の第21回大会までの8年間で、5年連続を含め実に6回も箱根路を駆けています。昭和10(1935)年の第16回大会では、初出場から3年連続で任された5区山登りにおいて、東洋大学初の区間賞(コース変更に伴い区間新記録)を獲得しています。 マラソンランナーをめざしていた池中さんは、在学中から走る楽しさを追求して練習に打ち込むとともに、練習方法や食事についても日々研究を重ねていたそうです。そのひたむきな「努力」の姿勢こそが、通算6回の箱根駅伝出場と後のマラソン世界最高記録樹立という結果に結びついていったのだと思います。 【池中さんの箱根駅伝での成績】
3 努力が開花、マラソンの世界最高記録を樹立 池中さんの口癖は「練習のみが奇跡を生む」だったそうです。そして、ついにそのことを証明する機会がおとずれます。箱根駅伝で東洋大学初の区間賞を獲得した3か月後の昭和10(1935)年4月3日、明治神宮外苑競技場において、翌年に開催されるベルリンオリンピックのマラソン代表の選考レースが行われました。その3日前の3月31日、同じコースで先に日本大学の鈴木房重選手が当時の世界最高記録を1分10秒上回る2時間27分49秒の記録を打ち立てていましたが、池中さんはその記録をさらに1分5秒も縮める2時間26分44秒のタイムで優勝を飾りました。その結果、池中さんはマラソン代表候補の一人に選出され、翌年の最終選考レースで代表の座を争うことになりました。ベルリンオリンピックの金メダル候補として、一躍「東洋大学の池中康雄」の名が日本中に知れ渡ったのではないでしょうか。 4 オリンピック出場の"夢"かなわず
オリンピック最終選考が行われる昭和11(1936)年5月21日に向けてトレーニングを積んでいましたが、レースを目前にしていたある日、池中さんのもとに郷里から弟さんの重態を知らせる電報が届きました。池中さんは急ぎ中津に帰り、弟さんの命を救うため大量の輸血をしたそうです。その後、東京に戻って練習を再開したものの調子が上がらず、体調が戻らないままレースに出場しました。当時のマラソン代表枠は現在と同じ3人で、最終選考で上位3人に入らなければなりませんでした。しかし、レース途中で身体に異常をきたした池中さんはそのまま途中棄権し、オリンピック出場の夢は幻に終わりました。 選考の結果、前年に池中さんが出した記録を2秒上回る2時間26分42秒の世界最高記録を打ち立てた孫基禎選手と、日本大学の鈴木房重選手、明治大学の南昇竜選手の3人がマラソン代表に選ばれました。8月のベルリンオリンピックでは孫選手が金メダル、南選手が銅メダルを獲得しました。 その後、池中さんは昭和15(1940)年に開催予定だった東京オリンピックのマラソン代表をめざしましたが、次第に激化する戦争の影響により大会は中止となりました。
5 郷里・中津で指導者の道へ
大学を卒業した池中さんは、戦争も終わりに近づいていた昭和20(1945)年6月、郷里・中津に帰って母校・中津中学で教師の道をスタートさせます。大分朝日放送の番組「なんでも大分見聞録」で数年前に放送された「伝説のランナー 〜池中康雄の生涯〜」の録画ビデオを観ました。その中で、かつて陸上部で指導を受けた教え子の皆さんが出演され、池中さんは練習では誰よりも早くグランドに出ていて、とにかく指導が厳しかったことや、雨が降り練習が中止だと喜んでいたら雨の日なりの練習はあるのだと諭されたことなどを、懐かしそうに語っておられました。戦後間もない頃の中津中学陸上部はとても強く、九州大会では2位を大きく引き離して常に優勝していたそうです。当時は経済状況が良くなかったにもかかわらず、大会遠征に必要な食料や資金は池中さん自らが調達していたといい、指導者として陸上にかける情熱が伝わってきます。自身の苦い経験から、「体調管理」の大切さを常々厳しく指導されていたそうですが、自分がかつてマラソン世界最高記録を出してオリンピックの代表候補だったことは一言も口にせず、当時の教え子の皆さんは後年になってから知ったそうです。 陸上競技部OBで中津出身の松田進さんと井上文男さんは、中津工業高校時代に池中さんから国語(古文)を教わっていたそうです(陸上部の顧問ではなかったため陸上の指導は受けていないとのことです)。松田さんと井上さんは高校卒業後に実業団へ進みますが、その後ともに池中さんに大学進学の相談をして東洋大学へ入学することになったと、「恩師」への思い出も語ってくださいました。 6 大分から世界に羽ばたくランナーの育成に情熱をそそぐ 〜別大マラソンの創設〜 池中さんは、教師として後進の指導にあたられる傍ら日本陸上競技連盟の役員も歴任されるなど、その後の日本陸上界の発展に大きく貢献されています。とりわけ、戦後の早い時期からランナー育成のためのマラソン大会を大分県で創設するために心血を注がれました。毎年2月初旬、新人ランナーの登竜門として知られている別府大分毎日マラソン大会、いわゆる別大マラソンの創設者は池中さんであり、昭和27(1952)年に第1回大会(別府マラソン)が開催されて以来半世紀以上の歴史を刻んでいます。そして、池中さんの熱い思いは、総合順位に関係なく大分県出身者の1位の選手に贈られる「池中杯」という賞によって今日に受け継がれています。また、別大マラソンが始まった昭和27(1952)年の11月には、いわゆる九州一周駅伝も第1回大会が開催されましたが、池中さんはこの駅伝の創設者の一人でもあります。 7 池中康雄顕彰碑 JR日豊本線の東中津駅近くに、池中さんを顕彰する石碑が建っています。池中さんは平成4(1992)年3月14日に77歳で亡くなられましたが、その功績を讃えるため、池中さんに関係する皆さんで顕彰会を結成して平成10(1998)年11月に建立したものです。表面には「マラソン世界最高記録樹立 2時間26分44秒」とあり、裏面には池中さんの功績や経歴が刻まれています。奇しくも石碑が建立された平成10年には大分で小学校の道徳副読本『大分の先人たち 心をそだてる物語』が刊行され、本の中で福沢諭吉、滝廉太郎、双葉山といった大分県出身の偉人・著名人とともに池中康雄さんが紹介されています(「ゴール目ざして走り続けた 池中康雄」)。
むすびにあたり 「輝け鉄紺!」を開設していなかったら、池中康雄さんについてはお名前だけでその足跡までたどることはなかったかもしれません。たとえ東洋大学が未だ箱根駅伝優勝を果たしていないとはいえ、出場60回を超える伝統の礎を築いた偉大なOBランナーがいたことを、多くの鉄紺ファンの皆さんにも知ってほしいと思いました。池中さんゆかりの関係者の皆さんをさしおいて、このような企画をすること自体甚だ僭越だったかもしれませんが、東洋大学のOB・OG並びに鉄紺ファンの皆さんとともに池中康雄さんの“心意気”と“情熱”を記憶にとどめ、近い将来、池中さんの遺志を受け継いでオリンピックマラソン代表として世界に羽ばたく鉄紺ランナーが現れることを願ってやみません。 最後になりましたが、本稿執筆にあたり情報収集に協力いただいた陸上競技部OBの松田進氏並びに貴重な写真を提供してくださいました佐藤あつこ氏に感謝申し上げます。 <参考資料> ・大分朝日放送「なんでも大分見聞録 伝説のランナー 〜池中康雄の生涯〜」(2004.1.31 OA) ・大分県小学校道徳教育研究会編『大分の先人たち 心をそだてる物語』1998年発行 ・関東学生陸上競技連盟編『箱根駅伝70年史』1989年発行 |
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2007.1.28記 |
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ランナー列伝“鉄紺伝説”1「池中康雄」補遺 |
鉄紺OB池中康雄氏創設 第60回記念別府大分毎日マラソン大会によせて |
平成23(2011)年2月6日(日)、東洋大学陸上競技部の歴史に偉大な足跡を残された鉄紺OB池中康雄氏が創設した「別府大分毎日マラソン」が60回目の節目を迎えます。過去59回のレースでは、宗茂・宗猛選手の兄弟対決や中山竹通選手と森下広一選手の一騎打ちなど、記憶に残る数々の名勝負が繰り広げてきた通称「別大マラソン」。その記念開催にあたり、去る1月30日(日)、フィニッシュ地点である大分市営陸上競技場敷地内に池中氏の功績を讃える記念碑の除幕式が行われ、大会関係者とともに鉄紺OBも多数参加されました。 そこで、式典に参加された鉄紺OBの方々の中で3度箱根路を駆け、現在はスポーツ報知の記者として活躍されている竹内達朗氏に寄稿を依頼したところ、快くお引き受けいただき早速原稿と写真をお送りくださいましたので、以下に掲載いたします。竹内OB、お忙しい中ありがとうございました。 |
池中康雄先輩の記念碑に誓う 平成3(1991)年度東洋大学陸上競技部OB 竹内 達朗(報知新聞社) 2009年1月2日、当時1年生だった柏原竜二が第85回箱根駅伝5区で圧倒的な区間新記録を樹立した。東洋大学は、初の往路優勝。勢いに乗った翌2日も復路を制し、出場67回目で初めて箱根路を制した。
「東洋大学」「新山の神・柏原」の名が日本列島に響き渡った76年前、第14回大会(1933年)に東洋大学は箱根駅伝に初出場した。その時に鉄紺ランナーとして初めて5区に挑み、そして、2年後の第16回大会(1935年)には同じく5区で東洋大学初の区間賞を獲得した選手が、池中康雄先輩である。言わば、東洋大学の「初代・山の神」。区間賞を獲得した1935年の4月にはマラソンで世界最高記録(2時間26分44秒)を樹立。現役引退後は、後進の指導に尽力し、出身地の大分県で別府大分毎日マラソン(通称・別大マラソン)の創設を提唱した。日本国内だけではなく、世界の舞台で戦える強いランナーを輩出することが最大の目的だった。 事実、歴代優勝者に名を連ねる谷口浩美選手(1991年世界陸上優勝)、森下広一選手(1992年バルセロナ五輪銀メダル)らは世界を相手に活躍。別大マラソンは「若手の登竜門」として権威ある大会に定着した。(池中先輩の詳細な足跡については「輝け鉄紺!」内の「池中康雄伝説」を参照) 2011年、別大マラソンが節目の60回大会を迎えるにあたり、東洋大学校友会大分県支部、大分陸上競技協会によって「別府大分毎日マラソン第60回記念大会記念碑(創設者 池中康雄顕彰記念碑)」がゴール地点の大分市営陸上競技場前に建立された。
東洋大学陸上競技部OBとしては、OB会の小菅常美名誉会長、小池文司会長をはじめ、別大マラソン第11回大会(1962年)優勝者の宍戸英顕氏、地元大分県の中津市出身で池中先輩と同郷の松田進氏、井上文男氏ら多数が出席。また、酒井俊幸監督、佐藤尚コーチも大分に駆けつけた。 松田氏は、中津工業高時代に、古文・古典の講師を務められていた池中先輩の授業を受けていたという。「とても温厚な先生でした。マラソン元世界最高記録保持者であるなんてことは自分で決して口にされなかったが、とても、存在感のある方でした」と、1992年に亡くなられた恩師の思い出を懐かしそうに語った。 松田氏は高校卒業後、広島の実業団チームに進んだが、箱根駅伝への思いが募り、東京の大学進学を希望。その時、親身に相談に乗り、東洋大学進学を薦めたのが、池中先輩だった。松田氏は、第49回大会(1973年)に1区で、第50回大会(1974年)に4区で区間賞を獲得した。「すべて池中先生のおかげです」と遠くを見るように話した。ちなみに東洋大学陸上競技部の長い歴史の中で、箱根駅伝で複数回の区間賞を獲得したランナーは、松田氏と現役の柏原竜二、田中貴章の3人しかいない。 すべての式典次第が終了した後、東洋大学陸上競技部OBが池中先輩の記念碑の前に集結した時、不思議なことが起きた。大分の青空に、雪が舞った。 1933年、池中先輩たちが箱根路に第一歩を踏み出してから幾星霜。もがき、苦しみながらも、それでも、誠実に脈々と鉄紺の襷を繋いできた、あるいは繋いでいく後輩たちを、天から池中先輩が労ってくれるような美しい風花だった。 式典で挨拶に立った酒井監督は、言った。「池中先生の思いに応えられるように、別大マラソンで勝ち、世界で戦えるような選手を育てます」 大分の空の上から池中先輩は、酒井監督の誓いの言葉が現実となることを期待し、鉄紺の後輩たちを見守っているのではないだろうかー。私は、風花を見ながら、そう思った。
2011.2.5記
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